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2013年は、携帯版KOTYスレにとっては長い年であった。 海をこえてやってきた強者があっさりと大賞を掻っ攫っていった前年と異なり、音楽・オートレース・スローライフといった各界の実力者が異種格闘を繰り広げることとなったのだ。 比較を許さぬその個性から議論は紛糾し、審議は難航を極めた。 彼らは戦いにより全域を焼け野原にした後もその焦土の上で踊り狂っており、満足して立ち去るまで我々は指を咥えて見ているしか無かった。 ユーザーにもスレ住民にも"Hurtful"だった『ホームタウンストーリー』がKOTYの栄冠に輝くまでの、実に2014年7月まで続く終わらない冬の始まりであった。 しかしそんな長い冬の間にも、2014年スレではKOTYの栄冠を手にするため、次なるクソゲーたちの萌芽が見られはじめていた。 **** まずはじめにその息吹を見せたのは、老舗カルチャーブレーンによる『超人ウルトラベースボール アクションカードバトル』(以下「超人」)だった。 本作は1989年から続く「ウルトラベースボール」シリーズのスーパーファミコン以来となる最新作である。 普通の野球ゲームではみられない秘打、魔球といった「ウルトラ技」を中心に人間離れした「超人野球」を楽しめる本シリーズだが、長いブランクを経て何を思ったかカードバトルとなって復活を遂げた。 まずはこのカードバトルについて説明しておこう。 打者と投手がそれぞれランダムに配られるカードを五枚持ち、手札からそれぞれ一枚、互いに5マスから1つコースを選んでセット、対決。打者はヒットを、投手はアウトを狙っていく。 打者は投手の手札と選んだマスを見ることが出来るので、そこから投手がどのカードを使うかを読んでカードを選ぶ。 投手は選んだマスに行く直球でいくか、そこからずれる変化球でいくか、それともウルトラ技かを、読まれていることを逆手に取ったりしつつ選ぶ。 また、どちらも敢えて見送りを選んで相手のカードを消費させる事もできる。 技の読み合いの駆け引きがこのゲームの醍醐味というわけである。 しかし実際は醍醐味以前の問題が多く、駆け引きがほとんど成立していないのが実状である。 まず、配布されるカードがランダムで、デッキ構築やカード収集などのTCG要素は存在しない。どんなカードが来るのかは運次第である。 更にカードにはレベルによる絶対的な格差が存在し、それなのに選手の体調管理やレベル、成長といった要素もないため、純粋にカードの強さで勝敗が決まってしまう。 しかし配られるカードはランダムなのでその格差すら運次第である。 肝心のウルトラ技までもランダムで配布されるため、これまでのシリーズであった「いつウルトラ技を出すか」という駆け引きは無く、ウルトラ技が出せるか出せないか、出されるか出されないかも運次第である。 このように運によって試合のすべてが支配されており、プレイヤーは早々に考え読み合う事の無意味さに気づき、うんざりしてくることとなる。 そもそもこの「試合」というのも一球ごとにカードとコースを選択する作業を9回まで延々と繰り返すだけなので、やることはずっと同じで飽きやすい。 体験版の範囲(3回戦まで)でも既に飽きが来るというのに、この試合に製品としての価値を見出すのは難しいだろう。 グラフィックや演出も総じてPS初期レベルであり、3Dモデルも酷いものである。 選手は全員同じ顔・同じ体格で、ユニフォームが違うだけと20年近くも前のシリーズの伝統を完全に踏襲。 肝心のゲームの売りであるウルトラ技も2Dを3Dにしただけのやっつけ仕事で全く迫力がない。 前作に比べればまさに雲泥の差であるが、前作とは時代がまるで違うのだ。 せめて平行移動でふっとばされるといったやる気のない動きはやめてほしいものである。 フリー対戦に加えて本作にはいくつかのモードが存在するが、もちろん楽しさなど味わえない。 ストーリーモードはエディットしたキャラも使えず超人技を集めることも出来ず、成長もしないキャラたちでただひたすらに一本道な試合を繰り返す苦痛の作業である。 辛うじて会話部分だけはそこそこ面白いものの、ぶっ飛んだ設定やメタネタは、試合を繰り返させる事ができるほどの飴ではない。 ミッションモードはその目標設定は悪くないものの、やはり肝心の試合が退屈なため苦痛へと変化しており、また報酬も味気ない。 面白く出来る要素がないことはないのだろうが、その根幹部分である「試合」が冗長な運ゲーであるがゆえに、全てがそこへ巻き込まれ、「トルネード打法」のウルトラ技として全が一のクソゲーとしてまとめられている。 そして良くも悪くも超人を語るのに欠かせないのがライトバージョンの存在である。 発売後一年も経たないうちにダウンロード専用で500円で発売されたこのバージョンのパッケージ版との違いは「ストーリーモードの廃止」、それだけである。 いくらパッケージ版の市場価格が値下がりしているとはいえ、ストーリーモード以外の価値を500円と断じるのはそれほどまでにストーリーに自信があるのか、それとも自分たちの開発したゲームはその程度の価値しか無いという自虐だろうか。 パッケージ版の公式ホームページはこのライト版へと更新され、パッケージ版の発売日や価格等の情報は開発元のホームページからは消し去られている。 しかしこのゲームを発売したという汚点は消えることがない。 消える魔球は地を這うだけで、発売したボールを無かったことには出来ないのだ。 クソゲーの芽吹きは止まらない。その1週後に、シリーズ作の養分を吸い尽くし、超人の傍らから芽を出したのが『ゲームセンターCX 3丁目の有野』(以下「有野」)である。 本作のスピンアウト元である「ゲームセンターCX」はお笑いコンビよゐこの有野晋哉がレトロゲームに挑戦するというCSで人気のテレビ番組で、その番組の面白い要素を活かしたゲームとして、本シリーズはDSで2作発売されている。 いずれもシンプルながら良質なレトロゲームを昔の雰囲気のまま今の快適性で楽しめる作品であり、開発したインディーズゼロの調理の絶妙さでニッチながらも評価の高いシリーズであった。 だが、本作は番組10周年の一環として急いで作る必要があったのか、開発元をグレフに変更しての発売となり、また恒例の番組コーナーもなくなるなど、ファンからは不安の声が寄せられていた。 2ヶ月の延期を経て発売されることになった本作は、残念ながら予想通り、クソゲーへと生まれ変わって登場した。 本作のストーリーは、80年代にタイムスリップして記憶喪失の有野少年の記憶を取り戻すために、レトロゲームをクリアしていくというものである。 メインとなるゲームinゲームは80年代を再現したものでジャンルは多彩。それ以外にもストーリー進行とは無関係のゲームも幾つか遊ぶことが出来る。 しかしこのゲームinゲーム、とにかく出来が悪い。 ファイナルファンタジーやゼルダの伝説、ドルアーガの塔などを元ネタとしているのだが、ガワは似ているが中身は満遍なくクソの玉手箱である。 元ネタの要素を大胆に削ったりアレンジをしたうえで新しい要素を付け加えるのだが、技術不足か人手不足か、まともなゲームはほとんど存在しない。 例として体験版でも遊べる「ルーミーと魔法のホウキ」を見てみよう。 これは敵を倒すのに3手かかる、面倒になったマリオブラザーズなのだが、ステージが進むに連れ敵の種類は増え、動きは複雑、固いブロックの登場など敵とマップがどんどん凶悪になっていく。 それなのにこちらの攻撃手段は乏しいため、無限コンティニューで押し切るか、ランダムで出るアイテムを使うのが定石となってしまうのだ。 その他の作品も、立ち絵や漢字など現代的な要素を追加してバトルバランスを放棄しストーリーも雑なFF的RPG、試合制なのにこちらだけ謎の前哨戦で消耗させられ不利な戦いを強いられるフライングパワーディスク風ゲームなど、ことごとくがゲームバランスを悪い方に調整している。 またストーリーを進行させるためのノルマや攻略法のゲームプレイ中の確認、ゲームinゲームのリセットなど前作ではできていた部分がことごとくできなくなっているのも問題だ。 これらが組み合わさり、プレイヤーはクソゲーinクソゲーを楽しむという主目的のもと、多彩な苦行を続けていくことになる。 ゲームinゲームの出来に目をつぶったとしても、残るのはレトロさを微塵も感じさせない要素だけだ。 ゲーム内説明書の遊び心やユーザーインターフェースのこだわり、サウンドやグラフィックなど、レトロさを再現するのに大切な要素はとにかく欠けており、懐かしい時代へのノスタルジーや没入感を得ることは出来ない。 それどころかドット絵なのに音源が現代風だったり、ファミコンっぽいのにカラフルでアニメーションする、SFCっぽいのに難しい漢字が書かれる、特定のパターンしか表示できないLCD(液晶画面)ゲームなのにパターンの変化をする、果てには街なかの背景に萌えイラストがあるなど、時代考証や再現を放棄している部分が随所に見られ、レトロさに愛があればあるほど違和感を感じさせる仕様となっている。 ゲームセンターCXのファン向け要素にしても、限定版の特典DVDは兎も角として、ゲーム内にある番組要素は無理にねじ込んだものが多く、そのせいもあってかどこかずれているものばかりである。 ゲームinゲーム中に茶々を入れてくる有野少年のボイスは内容が乏しく、同じ面で何度もやられると同じボイスを繰り返し聞く羽目になったり、そもそも喋るタイミングがおかしかったりする。 AD等の登場人物は、数は多いもののただ出しただけという人物も多く、その結果ひとりひとりの内容やボイスは少なくなってしまっており、登場頻度に依らず薄い内容となっている。 更に番組のネタを浅くしか理解していないかのようなネタの誤用も散見され、「ヘビーなCXファンの方に脚本を担当していただいている(開発ブログより)」とは思えないこのズレた出来は、番組要素だけでも……というファンの儚い期待を打ち砕いていった。 単純にゲームとしての出来が悪いのは勿論である。 タッチとボタン操作の混在した操作性の悪さ、前述のようにゲームinゲーム中にノルマや攻略法の確認方法ができないなど、快適性は低い。 レスポンスも悪く、目的地が表示されない割に場所移動をするたびに面倒なモーションが繰り返され、時間を削らされていく。 ボイスのボリュームも低く、音声の最後にぶつっと切れるような音があるなど、プレイヤーへの配慮など全く考えられていない。 「良質なレトロゲーム」「80年代のレトロな世界への没入感」「ゲームセンターCXのファン向け要素」「それらを今の時代の快適さで楽しむための操作性」といった、前作にあった魅力は尽く消し去られ、レトロゲーム集としての魅力も全くない。 それどころかレトロを履き違えた要素の数々は、有野をレトロゲーム集ではなく、レトロへの冒涜集として進化させたのである。 そうしてファンや住人を養分としてすくすくと育った2つの大樹の前に、本年度最大の問題作が、ゲームジャンルの彼岸から現れる。 AMGエンタテインメント開発、おふぃす5656発売のダウンロード専用ソフト『インフィニタ・ストラーダ』(以下「タダ」)だ。 本作は今流行の「基本無料」であり、プレイするのは無料だが、強いカードパックを手に入れるのに課金が必要という、よくある形のゲームである。 そもそも粗製乱造が続くFree to Playジャンルの作品であることから、そのポテンシャルははじめ疑問視されていたが、検証が進みその巨大で醜悪な実像が顕になるにつれ、我々の誰もがそのおぞましさに沈黙せざるを得なくなっていった。 本作は対戦型カードゲームを称しており、デッキを構築して敵と戦い、敵に勝ったり課金したりすることによって得られるカードパックを開封、新しいカードを組み込んでデッキを構築しなおしていくという流れ自体は一般的なTCGのそれである。 その流れを繰り返し、数々の敵との対戦によってストーリーを進めていくわけだが、この作品にはその一見かろうじてまともにみえる外面からは想像もつかない味付けが施されている。 本作を始めるとすぐ、劣悪なUIや反応の悪いタッチしか受け付けない操作などのわかりやすいクソ要素が程よくトッピングされた料理が我々の前に現れる。まあ前菜だ。 基本無料ということもあり、クソゲーによくあるその程度の壁は大したことはない。 カードの絵柄を描いた人の名前を間違えたり、トロフィーで自分の名前を「イニフィニタ」と間違えたりするけれど、基本無料なら仕方ないだろう。 しかしそれを乗り越えた我々が目にしたのは、先攻必勝、特定カード必須など、バランスが徹底的に破壊された闇のカードゲームであった。 まずカードの強さの問題から説明しよう。 本作のカードにはレアリティが存在し、数多の基本無料ゲームの例に漏れず、5段階のうち上位3段階のレアリティのカードは課金かオンライン対戦の報酬以外にはほとんど手に入らない。勿論相手は普通に使ってくる。 圧倒的格上に対し、技術や戦略によって勝ち星を掴むというのは、カードゲームでなくとも対戦ゲームのひとつの醍醐味であろう。 しかしこのゲームでそれは不可能に近い。課金カードの強さが圧倒的を通り越して悪質なのである。 レアリティがひとつ違うだけでこちらは一撃で倒され、相手は何度も攻撃しないと倒せない。 相手にレアリティ最高のカードを一枚でも出されたら、次のターンには全滅必至だ。 それでも相手のAIが稚拙なこともあり、ストーリー序盤は一定ターンスキル発動禁止などのスキルを駆使することで、低レアカードでも相手と渡り合うことが出来る。 しかし後半に入ると、レアリティ3以下のカードの効果半減・無効化といった、無課金者殺しを徹底したスキルを使う高レアカードが当たり前のように登場し、意地でも課金させようとしてくる。 それだけなら良いのだが、たとえ少し課金しても、同程度の強さ同士の対戦だと完全な「先攻有利」のゲームバランスが立ちふさがる。 場にカードを配置したターンには攻撃もスキルも使用できないという「召喚酔い」が存在するため、後攻はなすすべもなく先攻に虐殺されるのだ。 まさにバランス調整を投げ捨てたクソゲーだが、ここまでなら「課金させたいから」という理由でまあ許せるだろう。 ここからが本題である。 このゲームのデッキ構築枚数には下限がない。 また、デッキ切れのペナルティがなにもないため、初期手札以下の枚数のデッキにしてしまえば望み通りのカードを初期手札にすることが出来てしまう。 これを利用して「自分を犠牲にして特定属性の相手カードを全て墓地に送る」除去カードと「墓地からカードを回収する」カードを組み合わせると、相手に一切の攻撃をさせず勝利することが出来る。 所謂「除去デッキ」である。 このゲームの全てのカードは除去に耐性が無いため、対CPU戦においてこの組み合わせは文句なしに最強となる。 また、この除去デッキの作成には基本的に課金を要しないため、ストーリーで登場するような高レアデッキはこれを使って粉砕することが出来る。 その結果課金の意味がなくなり、カードゲームとしてのストーリーモードの存在意義もなくなってしまった。 特にオンライン対戦の報酬パックから入手できる「自分を犠牲にして場に出ている相手のカードを全て墓地に送る」カードを使えばそのカードと回収カードの2枚だけで完成してしまう究極さは、多彩な戦略・戦術や構築・読み合いというカードゲームの醍醐味を完全に除去しきったといえるだろう。 この除去デッキ、オンライン対戦でも強さを発揮する。 オンライン対戦では、なぜか手札からもスキルを発動できるという限定ルールが追加されている。 その結果先攻後攻関係なしにカードを先に出したほうが負けの除去ゲームとなってしまうのだ。 そもそもオンライン対戦はプレイヤーがほとんどおらず、トロフィーや対戦報酬目当てに談合が行われる程度であり、これらのデッキが意味を成すことは殆ど無い。 とはいえもし意味を成したとしても除去を持つものが勝利するだけの不毛な戦いには誰も対戦に価値を見いだせず、談合へと帰ってしまう。 除去デッキ全盛の時代、このゲームはゆるやかに終焉を迎えた。 はずだった。 その無意味な天下はある朝発見された「先攻必勝デッキ」によって終わりを迎えることになる。 カードを場に出してすぐ攻撃ができる「速攻」を活用したこのデッキは、先攻を取った瞬間勝利が確定する究極のデッキである。 本来カード自体の能力は弱い「速攻」だが、これに「手札からスキルを発動できる」ルールを活用して最大限強化をかけることで、相手に一切の行動を許さないままダイレクトアタックで倒すことが可能となった。 前述の除去カードを組み込むことで後攻でも必勝出来る応用性もあり、相手のターン中に攻撃することが出来ないこのゲームでは、対人戦でこのデッキに勝利することは不可能である。 ここに意味なき最強の座の争いは幕を下ろし、先攻を取れるか取れないかのコイントスレベルの戦いしか存在しないゲーム以下の何かとして、このゲームはユーザーの手によって終止符を打たれた。 インフィニ”タ”・ストラー”ダ”の後ろ二文字をとって「タダ」と呼ばれることになった本作は、タダより高いものはないという言葉の意味を我々の胸に焼き付けて去っていった。 現在、これらの問題点は何一つ修正されること無く、カードの追加も発売後1ヶ月半で終了、更に『インフィニタ・ストラーダ華』なるバージョンアップ版まで発表され、本作の存在価値は完全に無に帰したといえるだろう。 そして時は7月、2013年の長い冬も終わり、雪解け水を得て3つの大樹はすくすくと育っていた。 しかしそれと同時に、雪の中に封印されていた一匹の怪物が野に放たれることとなった。 彼の者は2013年夏、アニメの放映とともに発売されることが約束されながらも延期を繰り返し、2013年末の魔物として期待されながらも今冬発売のまま年を超え、無限と思われる延期の中、アニメ二期の放送にあわせて見事「7/31」発売という聖杯を象って姿を表した。 夏の怪物『Fate/kaleid liner プリズマ☆イリヤ』(以下「プリヤ」)である。 本作は月刊コンプエースにて好評連載中の漫画『Fate/kaleid liner プリズマ☆イリヤ』を原作としたゲームである。もともと『Fate/stay night』のスピンアウトコミックとして連載されている作品であり、2013年、2014年とアニメ化され、更に3期の放送も決定している人気作品である。 そんな人気作のゲーム化作品である本作は、発売前にはファミ通で「4/6/4/4」の18点を記録、そのしょんぼりとしたグラフィックに多くの住民を期待に沸かせ、ファンを脱力させた。 しかし本作は、その期待と想像をはるかに上回る怪作であった。 本作の特徴は「欠けすぎたゲーム」である。 キャラゲーとしてもアクションゲームとしても、必要最低限すら欠けているつぎはぎだらけの怪物、それがプリヤなのだ。 本作にはプレイ時間が欠けている。 基本的に4人のキャラクターごとに7日間の期限まで、一日3回の行動制限で場所を選択して2分もかからないイベントやバトルをこなすだけなので、1キャラクリアに1時間もかからない。 更に手に入る技のカードは引き継ぐため2周目からは30分もあればクリアできる様になる。 全てのエンディングを見ても3時間程度という、フルプライスのゲームとしては破格の短さである。 本作にはストーリーが欠けている。 原作アニメ1期後として設定された本作は、原作で苦労して集めた7人の英霊の「クラスカード」を紛失したので7日以内に集めようという物語なのだが、チュートリアル以降そのストーリーは背景と化し、カードを7枚集められればGoodエンド、集められなければBadエンドというエンディング分岐に関わるだけとなる。 ストーリーに意外性やヤマ、オチ、意味は全くなく、キャラゲーとしての舞台を整えるだけの存在である。 本作にはバトルの楽しさが欠けている。 微妙に長いロードの後、レディゴーの掛け声もなく始まる60秒の対戦型3Dアクションである本作は短い制限内に敵を倒すだけのシンプルなゲームである。 しかし技を発動する「エレメントカード」が非常に強く、発動動作中は無敵であり、またカードを数発当てれば殆どの敵が倒せてしまう。 カードを集めるまでは少し大変だが、集めてしまえば負けることはなくなるし、集めるだけなら戦わなくても入手方法がある。 また、初期位置が常に同じなので2度戦えば敵の出現位置は把握でき、ロックオンの機能が優秀なのでジャンプしてロックオンすれば敵の位置はいつでも見つけられる。 そのためマップごとの差異はバトルにはほとんど反映されず、カードでの殴り合いのみの単純なゲームとなっている。 本作には味方が欠けている。 英霊戦でランダムに乱入してくる他の魔法少女は、ストーリー上は味方であるがゲーム的には味方ではない。 彼女たちが敵にとどめを刺すと、自動的にプレイヤーは「敗北」となる。 高難易度では英霊を倒すより彼女たちに倒されないことのほうが難しく、味方の意味を問いたくなる。 本作には再現度が欠けている。 原作漫画において特徴的な、クラスカードの英霊の宝具(武器)を呼び出す「限定展開」と自身に英霊の力を上書きする「夢幻召喚」を本作でも取り入れている。 しかし本作の夢幻召喚は頭は自分、身体は英霊になるという手抜きである。 原作ではキャラに合わせた衣装があるのだが、その手間を省くためか、既存の敵のポリゴンを流用し、首だけすげ替えて仕様通りと言い張っている。 結果筋骨隆々な小学生バーサーカーが誕生し、スレを暴れまわることとなった。 本作には確実性が欠けている。 敵の出現場所も、出現順序も、イベントの発生場所も、発生するイベントも、手に入るエレメントカードもランダムであり、どのキャラに遭遇できるかはランダムである。 また、公式HPの情報はすべて開発中のもので、実際には存在しないマップもあり、ゲームを手に取る前から内容に確実性がない。 他にもカメラ操作に上下が欠け、タッチパネルにタッチが欠け、一枚絵はエンディングのみの8種類で収集要素も欠け、バトルの大事な要素の説明も欠け、開発スタッフのやる気が欠けていることを感じさせる。 何もかもが欠けたゲームだが、最低限だが遊ぶことは出来るようになっており、仕様書通りに最低レベルを作り上げたことだけは伺える。 まさにゲー無のお手本のようによく出来た作品である。 だが、それでもましなところが一つだけ存在する。 原作ファン向けの「会話劇」である。 本作の会話イベントはかなり多彩で、敵との対戦ひとつとっても、対戦前・対戦後についてイベントが各キャラクターごとに存在している。 また、各キャラクターごとに他キャラクターとの会話イベントが複数存在し、対戦しないイベントでも選択肢が存在し、また数回の連動イベントなので奥行きある会話が一応は楽しめる。 原作での戦いを踏まえた会話や訓練戦闘、ただ単にギャグだったりとその種類も多彩でほどほどに面白い。 そもそもキャラの関係性が説明されないなど、ひとつのゲームとしては前提部分が欠けているものの、フルボイスでまあまあの内容が最低限ではなく程々に作られており、会話イベントの内容「のみ」であれば、キャラゲーとしては及第点だろう。 このように本来ならクソゲーとしては欠点となるはずの「会話イベントが普通にあること」だが、その良さを破壊するのが、前述の「欠けすぎた」要素である。 イベントは1つ1分もあれば見ることの出来る短いものだが、行動制限があるため、1周では会話イベントは一部しか見ることが出来ず、また特に意味のないストーリー上の会話なのでこのゲームの物語だからこその会話イベントはない。 楽しくないバトルを繰り返して、時に味方に倒されながら、イベントを見る単調な時間が続いていく。 特に「確実性が欠けている」のが致命的である。 イベントはランダム発生であり、どこに行けば見られるのかは運次第である。 また連動イベントのため1周で見ることが出来なければまたはじめから見なければならない。 イベントの量は少ないながら行動回数も少ないので1周で全貌を把握することは出来ず、運が悪ければ何周しても遭遇できないイベントがある。 大して量がないはずなのにそれを手に入れるのに大量の苦行を要求され、浅いのに手の届かないもどかしさは、霧の中を手探りで歩く感覚にも似ている。 原作ファンであればあるほど泥沼に引きずり込まれていく本作はあたかもブラックホールのようであり、その虚無はキャラゲーとしての自らすら亡き者としてしまった。 **** それぞれが多彩な個性を発揮し、自らの磨き上げられた武器を持ち、牽制しあう彼らの前に、前年猛威を振るった年末の魔物は姿を表すことなく2014年は終わりを迎えた。 長い冬の後、筍のようににょきにょきと現れてしのぎを削った彼らの戦いは、スレ住民達に熱狂を与えてくれ、恐ろしくも暖かいクソゲーの春を感じさせてくれた。 その戦いを制し、見事本年度の大賞に輝いたのは『インフィニタ・ストラーダ』である。 タダは基本無料である。故にゲームとしては「大抵の破綻は目に止められない」。 タダが大賞となった最大の理由は、ただクソゲーであるということではない。課金によってクソゲーとしての真価がみえるというその構造の、クソゲーとしての隙の無さである。 一般的な基本無料のクソゲーでは、「ポチポチしてても面白く無い」「サーバーに接続できない」「ランキングが過疎ってる」「生首が浮いている」「すぐ飽きる」など、いくら根底がクソゲーであったとしても、課金することによって「絵はまあまあなカードを手に入れられる」「ランキングで上位に入れる」「アクティブユーザー100人のうちトップに立てた」「運営に修正費を寄付した」、さらにただ「金をドブに捨てるという快感」など、課金者にインセンティブを与える、という基本無料ゲームとしての最低限の前提は守っている。 所詮は「クソ基本無料ゲーム」であり、いくら中身がクソでも、課金のインセンティブがある時点でクソゲーとして弱いことは確かである。 しかしタダは課金しても何も得ることがない。 それどころか、逆にそのクソゲーとしての全貌が見えてくる仕掛けになっている。 課金すれば、多くのカードを手にすることで、強いカードの強さがわかり、除去の強さがわかり、除去禁止が存在しないことがわかり、先攻必勝を防ぐことが出来なく、コイントス以下であることがわかる。 課金すれば、課金する意味などないことがわかるのだ。 基本無料の部分で遊ぶだけなら、そこそこのクソゲーで終わるだろう。 基本無料のゲームを知るものであれば、こんなものかで終わるかもしれない。 しかし課金することによって基本無料の部分のクソゲーとしての質の高さが理解でき、洗練されていく。 この構造は、基本無料ゲームの枠組み「無料でゲームが出来る、課金すればもっとゲームを味わい尽くせる、本当のゲームを満喫できる」をそのままに、「無料でクソゲーが出来る、課金すればもっとクソを味わえる、本当のクソゲーを満喫させられる」というクソゲーとして完成された「基本無料クソゲー」なのである。 思えば2014年のクソゲーたちは、いずれも複数のジャンル・要素を組み合わせて出来た作品ばかりであり、ゲームの根幹部分にあるべき楽しさを腐らせることで、枝葉の要素の面白さまで腐らせるという二段構えで攻めてきた印象がある。 「超人」はカードゲームとしての運ゲーと飽きの早さによって、野球ゲームとしての9回までという試合の長さを「面白さ」から「退屈さ」へと変貌させた。 「有野」はゲームinゲームの多種多様なクソゲーさによって、「レトロ」としての自分も「ゲーム集」としての自分も破壊し、ファンアイテムとしても腐らせた。 「プリヤ」は体裁しか整えようとしないアクションゲームの底辺をさまよいながらも、「会話」という小さく弱々しい花を咲かせてファンを誘い込むことで、丁寧にキャラゲーとしての評価も潰しきった。 しかし彼らは根幹部分のクソさでは褒めるところもなく腐りきっているが、枝葉の枠組みを自壊させ、クソさでゲームとしての面白さを破壊するだけに留まっている。 「超人」は「試合」を冗長にし、野球ゲームとしての自分を否定しただけで、野球ゲームの枠組みに則ってクソゲーであるわけではない。 「有野」はレトロゲームとしての枠組みを破壊しゲームinゲームとしてクソゲーとなったが、それは結局レトロさを犠牲にしただけといえるだろう。 「プリヤ」は夢幻召喚の手抜きなどキャラゲーとしてクソゲーではあるが、キャラゲー「だからこそ」のクソさには踏み込むことができていない。 それらに対してタダは、根幹部分のカードゲームとしての致命的な破綻、枝葉の基本無料ゲームとしての自分を腐らせるというだけでなく、その枝葉の形を活かしたままクソゲーとして進化させた点で一歩先を行っている。 コイントス以下のバランスのカードゲームはカードゲーム自体の意味を否定し、ゲームの根幹部分の価値は無に帰し、それにより枝葉の「課金すれば得るものがある」という基本無料ゲームの枠組みは否定された。 そのうえで、否定したその枠組みを壊さないままに改装し、課金すればクソを得られる「基本無料クソゲー」というクソゲーと基本無料ゲームの悪魔合体を成し遂げた。 基本無料で「クソゲー」を感じさせ、課金すれば更に「クソゲー」を楽しめるという、「基本無料ゲーム」という枠組みを壊さず完璧なまでにクソゲーを体現するタダは、複合的なゲームの多かった本年度のクソゲーたちの中でも完成度で頭ひとつ抜けており、2014年の大賞にふさわしい作品といえるだろう。 なお、タダでは死なぬ、死んで華実が咲くものか、と言わんばかりにバージョンアップ版『インフィニタ・ストラーダ華』が2015年夏に配信を控えているのは前述のとおりである。 思えば『鬼帝』も『戦極姫』も、一度KOTY携帯版から旅立った者達、そしてその子孫たちが元の住処へ帰ってくることはなかったものだが、果たしてタダは枯れ木に華を咲かせることが出来るのだろうか。 タダに対するクソゲーとしての賛辞と、バージョンアップ版での改善への期待を込めて、AMGエンタテイメントの主要株主であるアミューズメントメディア総合学院の教育理念にちなんでこの言葉を贈ろう。 「悪夢は、夢だけで終わらせてください」